仏教

本当の自分

 

十人十色という言葉があります。

十人いればその十人ともに個性があり、全く同じ人はいないという意味で使われます。

では自分に目を向けたとき、その色は、例えば青だとしたら何があっても青ということになるんでしょうか?

 

家にいる自分、友達といる自分、会社にいる自分、趣味に没頭する自分といろいろな自分がいます。

友達といると言っても、仲の良い友達といる時や久しぶりに会った友達といる時、近くに住んでいてもそれほど会わない友達といる時や、遠くに住んでいてもよく連絡は取る友達といる時など、ひとつとってもいろいろな自分がいます。

そんな時、対する人によっては自然体でいられたり、わざと明るく振舞ったり、ちょっと意地悪したり、あまり好きじゃないけど愛想よく振舞ったり、和を乱さないように自分を抑えたりと、いろいろな自分を演出したりします。

でもそんなことを繰り返していくうちに、ふと、本当の自分はどれなんだろうと疑問がわくこともあったりしないでしょうか?

そんな八方美人な自分、人によって態度をコロコロ変えるのは不誠実と思う自分に嫌気がさすこともあるかもしれません。

 

でも、人によって態度を使い分けたりするのは、多くの人と接していけばいくほど、いろいろな人に対応していくために自然と身についていくものなので結構普通のことだと思います。

生まれたときは真っ白でも、赤い親に育てられればだんだん赤になっていくでしょう。

そして青い友達と遊べばだんだん青と混ざって紫っぽくなっていくでしょう。

尊敬する人憧れの人が黄色なら、それに強く影響されれば黄色の要素が強くなっていくでしょう。

ひとりでいたとしても、その時に考えていたことによって色も少しづつ変わっていくかもしれません。

そうやってその時々によって自分の色は変化していきます。

そしてその色の中には、赤の要素もあれば青の要素もあり、それが混ざった紫の要素もあれば緑も黄色もあります。

その中のどれが本当の自分というものはなくそのすべてが混ざり合った色が自分という色です。

 

 

でもそうやって自分の色が出来上がっていったとしても、それを見る人によって印象は変わったりします。

自分ではそう思っていなくても、見る人が見れば、慎重だという人、大胆だという人、頭がいいという人、詰めが甘いという人といろいろです。

 

なぜそんなことが起こるかというと、それはその人が自分の色のフィルターを通して相手を見ているからです。

青い色を青いフィルターを通して見ればそれは青く見えます。

しかし青い色を赤いフィルターを通して見れば、それは紫に見えますよね!

赤の濃さによってはピンクに見えたりもします。

 

このように自分の色というのは、それまで歩んだ人生、環境、見る人によってさまざまな色になっていきます。

 

色とは個性。

どれが欠けていてもそれは今の自分にはなっていません。

自分に嫌いな部分があるとすれば、経験によって新たに色を重ね塗り、嫌いだと思っている部分がわからなくなるくらい塗りつぶしていけばいいと思います。

 

終わりに

この色を単色としてしか見ることができないなど、ひとつのものをその「個」として表面的にしか見ることができないことを仏教では「凡夫の知見」と言います。

他に例えば、四角い板があるとします。

これは誰が見ても四角い板ですが、対角線上に切れば三角になるし、円状に切れば円になり、それを半分に切れば半円になる。

誰が見ても四角い板には、三角の要素もあり円の要素もあり、厚薄、高低もあり、切り方によっては様々な形にすることができます。

それを見抜く力を「万徳」と言ったりするそうです。

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