現代の托鉢
一般的には、お坊さんが家々を回ったり、人通りのあるところ、主に観光地になっている寺院の近くに立ってお経を唱え、その家の人や道行く人から施しを受けることという認識ではないでしょうか。
現在ではチャリティー活動としての一面もあり、和歌山県の高野山では年中行事として、若い修行者達によって毎年決まった時期に行われたりします。
そういうイメージの托鉢ですが、その意味、考え方、昔は少し様子が違ったようです。
托鉢の起源
托鉢は、お釈迦さんがいた2500年前からあり、出家した人は所有欲から離れるため、持ち物は衣と鉢という最低限のものしか持たず、修行だけに専念するために、糧の一部を僧侶以外に求めたものです。
鉢とは器のことで、読み方は托鉢(たくはつ)、鉢(はち)です。
托鉢のもともと
托鉢は、見方によっては物乞いのようにも見えますが、もともとは違ったそうです。
今は、お布施をくれた人の幸せを祈念するという、相手の行動に対して僧侶が返すという形になっています。
昔は、一説には一般の人もいわゆる所有欲から離れるため、その欲を僧侶に引き受けてもらうという形だったそうです。
だから、物を渡しながらお礼も言っていて、それを引き受ける僧侶はお礼はしなかったという話もあります。
今の時代そんなことをしてたら怒られそうですね(笑)
お釈迦さんと弟子のエピソード
ある時、托鉢に向かう弟子たちにお釈迦さんはこう言いました。
それは「裕福な家ではなく、貧しい人たちの家を回るように」と。
裕福な家を回る方がお布施をたくさん頂けそうですが、意図がわからない弟子はお釈迦さんになぜかと聞きました。
すると、「貧しい人がなぜ貧しいのか、それは相手に与えるという喜びを知らないからであり、それを知る機会を与えるのが托鉢の目的だから」と説きました。
終わりに
裕福だから幸せ、貧乏だから不幸というよりは、心の持ちようなのかなと考えさせられる話です。
確かにプレゼントをすると気持ちが明るくなるような気がします。
相手が喜んでくれるとなおのことですね(^^)
この話を友人にしたとき、私の祖母は貧乏だけど人にプレゼントするのがすごく好きで、心は豊かだったのかもと言っていました。
一時流行った大家族番組でも、子供が10人くらいいて、裕福ではなく忙しい毎日を送っているお母さんが、大変だけど楽しい、まだまだ子供を産みたいとすごいモチベーションで話していたのを思い出します。
子供を育てる、与える喜びを知っているのでしょうね。
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